バトン
その日のホストは確かに赤と黒の服を着た親父だった。
どこか得意げに大谷地駅から道のりをゲストに案内する父は、はやる気持ちが歩くスピードにあらわれてしまい、まだ小さかった娘を抱きながら歩く僕とそのマイペースなスピードに懸命についていくもう一人のゲストの妻に不評だったかも知れない。
でも良く晴れ渡った青空はそれでも僕ら夫婦にも笑顔を促し、なんだか自然と手を繋いでしまった。
会場に着き賑わう人混みの中立ち止りリュックから出したチケットに手書きで対戦相手を書き込むと僕らに手渡し、
「お前はまだ必要ないよ」と軽く娘の頭を撫でた。
妻と僕は顔を見合わせた。
娘が産まれたとき病院に面会に来て「抱いてみてください」というごく普通の妻のお願いを頑なに最後まで拒否した風変わりな親父にしてはその行為はちょっと不釣り合いで、娘も生まれて初めて目にするテレビアニメのキャラクターを見るような顔で祖父を見上げた。
満点の厚別の良き天気が父をそうさせるのか?
それともフットボールがそうさせるのか?
席についた僕は父から手渡されたビールを飲みながら考えた。
高校を卒業して上京する朝…。
父は搾乳があるからと特に別れの言葉をいう事もなく僕より早く家を出た。
それは後継ぎをしない息子への冷たい仕打ちというよりも照れ臭さを隠すいつもの行為だと思った。
母に見送られ家を出、数年前に廃止になった鉄道のまだ残る線路を渡ってふと振り返ると
そこには絵葉書のような北の大地の牧場の風景と三角の屋根の実家が見える。
そしてその横に寄り添うようにたつ大きなパラボラアンテナが遠くからでも分かった。
あのアンテナは「イタリアワールドカップ 全試合放送」の文句に小躍りした僕が父にねだった代物だった。
1つのビデオをフル活用してなんとか全試合を録り終えた僕は、その後3か月間各試合をそれこそテープが擦り切れるほど見た。
海外の実況を真似てボールの渡る先の選手の名前を淡々と呼ぶ僕の後ろには何故だかよく父が一緒にいた。
スルーパスという言葉も、
アフリカの身体能力も、
バルデラマの古典的サッカーの事も
父は黙って聞いていた。
フットボールが持つワールドワイドな側面。
それとは相反しクラブチームというその地域に根を張る存在。
ナポリの王様だったマラドーナがイタリアワールドカップでボールを持つ度にブーイングを受ける悲哀を。
そんなことを得意げに話す息子を父はどう思っていたのだろう。
ときおり選手のプレイに感嘆をもらす父に向かって
「あれはスキラッチだよ」と話す息子に父は目を合わす事なく黙ってうなずいていた。
無愛想な父に初めて厚別に、初めてのJリーグに誘われたのは、パラボラアンテナを振り返って見た10数年後だった。
「お前がいなかった時代」に北の地にできた
フットボールクラブを僕に見せる父は
あの当時の僕のように赤黒の選手の名前を淡々と言って見せた。
僕はなんだか不思議な気持ちになった。
やがて赤と黒のチームが相手ゴール前でFKを得る。
その数十秒後。
体格のいい褐色のブラジル選手が相手チームのゴールへ見事に突き刺すと咆哮をあげこちらに向かって走ってきた。
その選手につられるように立ち上がった父は拍手をしながら僕に
「立ちなさい」と言った。
昔、無口な父がこちらに向かって何か言う度に強烈な拒否感を覚えたのに、その時は引き寄せられるように立ち上がる。
父を真似るかのように胸の前で静かにでも熱く手を叩いた後、赤黒の服を着たそのホストは僕に向かってこう言った。
「コンサドーレ札幌のフッキだ」
僕はあの時の父のように黙ってうなずいた。
父に渡したフットボールのバトンが10数年後、ホームに帰って来た僕に戻ってきた。
フットボールの持つ力。
その時。
厚別の気まぐれな風が立ち尽くす僕と父を吹き抜けた。
厚別の風の力は、僕達親子を
子供の頃以来の握手をさせた…。