ルヴァンゲリオン⑥
Episode Ⅵ「父との約束」
(Episode I・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ・Ⅴからつづく)
僕は父からのメールに激しく驚愕していた。
2019 年の年の瀬も押し迫った12月27日。
僕の心の中にはこの数日間、北の地で言うところの「ガス」がかかっていた。
その「ガス」の理由は父との約束を果たしてないからだ。
父との約束。
そんな難しい事ではなかったのに…。
父は僕が1歳の誕生日を迎える頃、突然、脱サラをし牧場をすると東京から北の地に降り立った。
それは父の比較的良き家庭で育った事への反抗だったのか。
いや、単純に生まれつきながらのへそ曲がりの性格からして必然だったのかもしれない。
ともかく妻と赤子を連れて道東の牧場に潜り込み働き、数年後流れ果てて北の国のそれも北の地で念願の牧場の主になった。
当時、必要最低限の労力でいかに牧場経営を成り立たせるかと言う事に主眼を置いた父の一風変わった方針は周りの農家からは随分と特異な目で見られていたはずだ。
でも父は、毎日の晩酌、ドラクエ、たまに息子を連れて行く映画館、自分へのご褒美と題して街に数軒しかなかった喫茶店でチョコレートパフェを食す事を楽しみ、ただ淡々と、しかし誰からも指図を受ける事なく優雅に。
経営者としてその牧場を三十数年続けた。
その間、僕は父から2度「後を継ぐか」と尋ねられた。
1度目は高3の春。その意思の最終確認のように尋ねられた。僕は小さい頃から牧場を継がないと父に宣言していた。そしてその時もいつもと変わらぬ答えを父に告げた。父は小さく「わかった」と言った。
2度目は僕が10何年後東京から帰ってきて
隣街で働き出し数年たった頃。職場の隣の喫茶店で。
父は翌年牧場をリタイアし、東京に帰ると僕に言った。実家の母屋は残し、雪のない時期だけ北海道で暮らすんだとチョコレートパフェを食べながら話した。
その時も僕は、高3の頃とは同じ答え、ただその時よりは幾分と丁寧に感謝の意を込めて父の誘いを断った。それは10数年の僕の東京でのほろ苦い生活で思った父への敬意を表したつもりだった。
でも父はあの時と変わらず「わかった」と言った。その父の小さな返事の際にこぼれたパフェのクリームが「consadole」と描かれたリュックに落ちた。
父は僕のいない間にパフェの他に楽しみ見つけたようだった。
そこから僕は少しずつ父の後を追いかけた。
雪のない間北海道にいる父とリュックに描かれたクラブの試合を観に行った。
5時間近くの運転を僕に任せたい思惑の父と徐々に赤黒に魅力に染まっていく自分との距離はそのクラブを中心に狭まっていったのかもしれない。父が僕に後を継ごうとさせたのはまるでそのクラブかと思える程に僕はそのクラブにのめり込んで行った。
その間、J2の苦楽も、昇格の歓喜も、J1の苦さも味わった。
いつのだったか父に「オヤジが死ぬまでタイトル取りそうないからその想いを俺が継ぐ」と対して面白くない冗談を言った事がある。
父は黙って笑っていた。
その冗談が今では少し恥ずかしく思えるくらいに赤黒のクラブは躍進を見せ、そしてクラブがついにその星を掴む舞台に立つチャンスを勝ち取った準決勝の日、僕はドームから自宅へ帰る途中、実家に寄った。
言葉でははっきりと出さないが父を決勝に誘う為だった。
僕は父が当然行くと思っていた。
だが決勝の何日か後に東京に戻る予定だった為か僕の誘いにのらなかった。いや、一緒にいる母の手前もあったのか。
「アンタが一緒にお父さんと行きたいってお母さんに頭を下げるベキだったんじゃない。そうすれお父さんの顔もたったんじゃない」
実家から自宅へ帰る車中、妻が言った。
実家を出てから僕も同じ事を考えていた。そう僕が言うのを待っていた気がする。
「ホントはおじいちゃん行きたそうだったよ」
後部座席から珍しく息子が身を乗り出し運転する僕の顔を覗き込む。
「行きたいに決まってるじゃない。私達の何年も前から見てきてるのよ。沖縄までキャンプも観に行って、なんで初タイトルの決勝を見ないのよ。お母さんもいかしてあげればいいのに」
妻のダメ押しにハンドルを握る僕は黙ってアクセルを踏むしか出来なかった。
結局、僕は父のいない埼玉スタジアムであのドラマを味わった。その句読点のない物語から現実に戻った数日後、父からスポーツ新聞の付録「ルヴァン杯準優勝の軌跡」を買って送るようメールがきた。「新聞代は振り込みました」と添えられて。
行きたくても行けなかった、その日のドラマが乗っているその新聞を父は僕に頼んだ。確かに実家から新聞を買うには車で30分ほどかけないと手に入らない。でもそうじゃない。なぜ父は自分で買わずに頼んだのか、その短い文面でも僕にはわかった。
メールのきた日にすぐ新聞を買い、銀行に行くと父から新聞代が振り込まれていた。
思ったとおりだった…。
その新聞代は家族で埼玉スタジアムに往復するくらいの金額だった。
その大事な新聞を僕は無くしてしまった。
父親譲りの整理整頓の苦手ぶりのせいで。
無くしてしまった事がわかった数日間。
心にガスがかかる中、僕は色々と手を尽くした。だが2カ月前の新聞はとうとう手に入らなかった。
父へのいい訳をどうしようか。
いや、どう返答したところで父は小さく
「わかった」としか言わないからこそ、かえって連絡ができなかった。
逃げちゃダメだ…。
そう思った日の夜。それを見越したように父の方らメールがきた。
そして目を疑った。
そのメールにはこう記してあった。
「新聞届きました。ありがとうございます。」
ガスは晴れなかった。
晴れるどころか益々濃くなった…。
…To Be Continued